コーヒーの家の発生に伴う「各地の商人の動き」と「植民地主義」の始まり

コーヒーは、コーヒーの家の誕生とともに、

世界へ羽ばたいていく。

どのようにして広がっていったのか?

ヨーロッパ各地でコーヒーの家が続々誕生

ヨーロッパ各地で、
コーヒーの家(コーヒーハウス)は、

あっという間に広がりを見せていきました。

1652年、ロンドン
1666年、アムステルダム
1671年、パリ
1683年、ウィーン
1686年、ニュールンベルグ、プラハ
1687年、ハンブルグ
1694年、ライプツィヒ

イエメン・モカ

コーヒーの供給源は、

「イエメンのみ」だったため

イエメンは潤い、幸福なアラビアと呼ばれていました。

 

生産者から買い取られたコーヒー豆は、

「Tihamah」(モカからサウジアラビアに続く紅海の沿岸)の、

「Bayt al-Faqih」(イエメンの都市)に集められ、

ここに、世界各地から商人がコーヒー豆を買い付けに来ました。

 

さらに、輸出する際は「モカ港」が使われました

特にヨーロッパの人々は、モカ港のみが直接寄港を許されたために、

モカ港を軸としながら、
国際性に富んだ貿易が進んでいきました。

 

イエメンが潤っていく一方で、

カイロ(エジプト)の商人達もこのチャンスを逃すまいと、

南アラビカのコーヒー市場に参入してくることになります。

カイロの商人達

カイロ商人とは、今で言うところの「エジプト」で活躍した商人達。

 

カイロの商人達は、オリエント交易(アジアの香辛料を、ヨーロッパ諸国に売る時の仲介業)で潤っていましたが、

ヨーロッパ人(主にポルトガルとオランダ)のインド進出を受けて、大打撃を受けました。
(香辛料の取引ができなくなったので…)

 

そこで彼らは、コーヒー産業への進出を決意。

 

イエメンの山地で栽培されたコーヒー豆は、カイロに大量に保管されるようになり、

それらをレヴァント地方(トルコ、シリア、エジプト辺り)で売り、

ヨーロッパ諸国と取引を始めました。

レヴァント商人

レヴァント地方でコーヒーの買い付けをしていたヨーロッパ人商人を「レヴァント商人」と呼びます。

 

彼らの狙いは価格水準の差。

安く仕入れて、高く売る。
(重商主義)

ヨーロッパでは、コーヒー豆に何倍もの付加価値が付けられ高値で取引されました。

 

元々は「悪魔の臭い」と言われたコーヒーも、

「理性のリキュール」
「アンチ・アルコール」

と言う謳い文句で、次第に広がりを見せていきました。

オランダ商人

オランダでもコーヒーは広がりを見せた一方で、

オランダ商人達の商売は独特なものでした。

 

コーヒーは元々、イスラム圏から伝わったものだったため、

イスラムの人々への売ったらウケるのではないか?
と、予想したところ大当たり。

 

モカで仕入れたコーヒーを、

ムガール帝国(インドのカルカッタ(ゴアの下))や、
マラッカ王国(インドネシアのスマトラ島)に、輸出することに。

 

コーヒーの価格差は非常に魅力的であったが、

「買って、売る」よりも、「作って、売る」方が儲かることに気付きます。

 

そうして、セイロン島(スリランカ)にて、

コーヒーのプランテーションに挑戦。

最終的には、モカから苗木を取り寄せ、ジャワ島で栽培が行われ、

1712年に最初の船荷として、アムステルダムでせり出されることになりました。

 

これが、アラビア商人の仲介がない

 

世界初の「植民地コーヒー」です。

植民地主義が始まる

コーヒーは、ヨーロッパの植民地主義の歴史を黒々と湛える商品になっていきます。

 

ジャワ島では、現地の人々が「無報酬で働く」もしくは、
「持っている土地の一部を、コーヒー豆の栽培用に転換する」ことが求められました。

 

オランダ商人達は、吸い上げた利益を、土地の支配者に還元することで、

より一層、支配的なコーヒー栽培に拍車をかけることに。

さらには、支配階級の人々が私腹を肥やすことを、法律で認めていたと言います。

 

商業資本は、「貿易差額/価格格差」が重要です。

簡単に言うと、「安く仕入れて、高く売る」

その分の差額が利益です。

 

しかし、オランダ商人達がここで行ったのは、

文明水準の差異」を利用した商売です。

安い土地で生産し、高く売れる国で売る。

 

ジャワ島は元々米作地帯であったが、そこに西欧人がやって来て、

主食の稲作をコーヒー栽培へ転換。

中には餓死していく人も多くいたと言います。

 

第三世界(発展途上国)は、消費国(先進国)の、「消費欲望」によって形成され、

現代にも残る、「第三世界の問題」が作られました。

 

元々コーヒーは、豪華なコーヒーハウスを建て、飲み方をデモンストレーションし、
人々のコーヒーへの欲求を作り出し刺激しました。

すなわち、人間と自然とを「内的に変化」させ、広がりました。

 

このように、内的欲求を変化させた後は、消費欲求が増大したために、

外的自然」に手を加える必要がありました。

 

それは、苗木を運び出し、別の場所へ植樹し、

人々を強制的に働かせて、無理矢理、生産し搾取する。

 

先進資本主義国で調達された、「ムッシュー資本」と、

西インド諸島、東南アジア、中南米、アフリカ、といった「マダムの大地」が結び付き、

人々はコーヒーを作るため、生きるために、
自分の家族や、言語からも切り離されていきました。

 

こうして、西欧人によって、

コーヒーは、世界各地へ広がっていったのです。


 

「コーヒーが世界史を作っている。」

といっても過言ではないですね。

 

コーヒーの歴史はまだまだ始まったばかり。

次は、コーヒー文化の各都市の拡がりをご紹介して行きます。

今回の参考資料



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