ナポレオン・ボナパルト
コーヒー無くして
フランス革命は起こり得なかった。
フランスの上流階級へコーヒーが伝わる
フランスでのコーヒーの広がりは、国際政治との関連が深かったといいます。
1669年、トルコ大使の「スレイマン・アヤ」がパリに着任。
(キリスト教とイスラム教は、「不倶戴天の敵」と言われたが、ドイツ神聖ローマ帝国の帝都「ウィーン」を討ち滅ぼしたい、という相互の利益の共有していた。)
スレイマン・アヤによって、
じわりじわりとコーヒー・カフェ文化がパリへ流入し、
人々のエキゾチックなオリエントへの憧れに乗って
上流階級の間で、人々を魅了していきました。
しかし、コーヒーが民間に広まらなくては、
国民的飲み物になることはもちろん、
約100年後、カフェは啓蒙思想を広める場所となり、
のちの「ナポレオン」生み出すこともできなかったでしょう。
では、コーヒーはどのように、民衆へ広がっていったのか?
民間ベースでも広がりを見せたカフェ(コーヒーの家)
スレイマン・アヤが上流階級で、
コーヒーをお披露目しているかたわら、
民間ベースでもコーヒーは広がっていきました。
出稼ぎアルメニア人の「パスカル」という人物が、
パリ・サンジェルマンにカフェ(コーヒーの家)をオープン。
初めは軌道に乗ったが、うまくいかず撤退することに。
その3、4年後、別のアルメニア人が、
またカフェ(コーヒーの家)をオープンするも撤退。
しかし、転機が訪れます。
当時このカフェ(コーヒーの家)で働いていた
「グレゴワール」というペルシャ人が買い取ることになります。
彼は「カフェとはなんぞや」ということをよく心得ていたそうです。
彼の祖国では、「コーヒーの家」は、
「認識の学校」と呼ばれ、学者や文士の集まる場所とされていました。
グレゴワールは、パリの「コメディ・フランセーズ」という場所に、
学者や文士が集まることを知っていたので、
その正面に新たなカフェオープン。
見事に、大当たり。
演劇終了後に、批評家や俳優などが集まる場所としても利用され、大成功を収めました。
また、最初の出稼ぎアルメニア人、パスカルのもとで働いていた
「プロコピオ」という人物もまた、カフェをよく心得ていたそうで、
彼は、パレ・ロワイヤルにあった浴場を買い取り、カフェに改造。
「カフェ・プロコプ」は、やがて、
フランス啓蒙主義、アメリカ独立、フランス大革命の時代に大きな影響を与えた、
歴史を代表するカフェになっていきました。
このように、民間へのコーヒー・カフェ文化は、
アルメニア人がきっかけで、世の中に広まって行ったようです。
フランス人に受け入れられた「カフェ・オ・レ」
フランスでは、コーヒーが流行り始めた頃、
「コーヒーは、体に害を与えるもの」として、認識されていましたが、
「モナン」という、高名な医者がその噂を断ち切りました。
「コーヒーの害は、牛乳と一緒に飲むことで中和され、むしろ体に良いもの」
これがいわゆる「カフェ・オ・レ」です。
こうして、コーヒー、カフェ・オ・レが、
国民へ浸透し、今日でも皆に親しまれる飲み物となっていきました。
コーヒーが、イギリスでは受け入れられず、フランスでは受け入れられた理由
イギリスでは、コーヒーが受け入れられなかった理由は、大きく2つあります。
・女性のカフェ立ち入りが禁止
・男性がコーヒーハウスに入り浸ることで、セックスが減少
いわば、女性を排除していた側面がある、ということ。
一方フランスでは、コーヒーの効力について、
パリ大学医学部長フィリップ・エケが次のように語っています。
「熱情を抑制することはあっても、根絶することはせず、調整することができる。また、二人を結ぶものは、情熱ではなく理性となることで、互いを尊重し、良好な関係を継続することができる。」
フランスのコーヒーは、家庭に進出し「結婚の秘蹟」とも結びつきを見せました。
もともと、コーヒーを受け入れたのがヴェルサイユの貴婦人ということもあり、
女性を排除するような動きは全くありませんでした。
男性と女性の両方に好かれたコーヒーは、
しっかりと国民生活の一部になり、その存在感を示していきました。
コーヒーがフランスを発展させていく
コーヒー、カフェが広まり、1720年代には、パリに約300件のカフェが建てられました。
中でもフランス革命において、有名なカフェが4つ。
- カフェ・プロコプ
- カフェ・ド・フォア
- カフェ ・オト
- カフェ ・ソル
フランス革命時の様々な思想のグループ・派閥が、それぞれのカフェに集まり、
国を動かすために、激しい討論をしていたそうです。
そして、カフェは、フランス全土、ボルドー、ナント、リヨン、マルセーユなどの、
他の大都市にも同様に広がっていきました。
目醒めのリキュールと言われ、
とても知的でアルコールとは正反対の効果を持つコーヒーは、
居酒屋からその王座を奪い、人品もまたエレガントで高貴なものへと変えていきました。
フランスがコーヒーの栽培を始める
カフェの広がりにとともに、フランスは「コーヒー栽培」にも着手します。
1723年ドゥ・クリューという人物が、コーヒーの苗木を、
フランス領、西インド「マルティニーク島」に運ぶことに成功し、コーヒー栽培が始まりました。
安価で取引されるようになった西インド産のフランスコーヒー豆は、
あっという間にその生産数を伸ばし、ヨーロッパだけではなく、
イスラムの世界にまでその影響を及ぼすようになっていきました。
また、西インド諸島の一角である、「ハイチ」でも、
1734年からコーヒー栽培がされるようになり、
コーヒー産業は、フランスの富の源泉の1つとしても認められるほどでした。
フランス革命とハイチの独立
ハイチコーヒーが、フランスに潤いをもたらしたのと同時期、
フランス本国では、「自由・平等・博愛」というスローガンのもと、フランス大革命の真っ最中。
当時のハイチでは、原住民やアフリカから連れて来られた黒人奴隷によって、
コーヒー産業は運営されていましたが(管理職は、当然白人)、
原住民や黒人奴隷は、ろくな生活の保障もされず、劣悪な労働環境で働かされていました。
そして、フランス革命のスローガンに同調するように、
黒人奴隷たちは、声を上げ、戦い
ハイチも独立の道へ向かって行きました。
ナポレオンが恩恵を受けたコーヒー文化
フランス革命において最も有名な人物が…
「ナポレオン・ボナパルト」
ナポレオンもまた、コーヒー、カフェの文化によって、恩恵を受けた人物の一人です。
彼は、「カフェ・イタリア」という高級カフェで、バラス子爵に可愛がられ、出世の道をたどることとなります。
「カフェ」で、コネを作り、作戦を練り、演説し、人々を動かす。
そうしてナポレオンは、ついに、王政を討伐することに成功しました。
王政をひっくり返したナポレオンを恐れた周辺国の王様たちは、
「自分の国でも王の力をひっくり返されてはならない!」
と、「対仏同盟」を結束。
ナポレオンは怯むことなく、この大きな同盟国を打ち破り、
オーストリア、ロシア、ポルトガル、スペイン、神聖ローマ帝国を解体。
兄をスペイン国王に、弟はオランダ王にし、ヨーロッパを支配し、大陸封鎖令によって、イギリスの孤立化を図りました。
大陸封鎖令によって、航路をたったことで、西インドはもちろん、ジャワからもコーヒーがこない。
コーヒーを愛したフランス国民からは、反感を買ったようで、
さらには、ドイツなど周りの国々もコーヒーを飲むことができず、かなりの反感を買ったともされています。
(この時ナポレオンは、15年連れ添った妻マルティニク等出身のジョセフィーヌと離婚した。その後ハプスブルグ家のマリアと結婚した。)
ヨーロッパ制覇に突き進むナポレオンでしたが、
ロシアが大陸封鎖令の言うことを聞かなかったため、
ロシア打倒に行きますが、返り討ちにあい失墜。
そして、ライプツィヒの戦いにて、ナポレオンは敗れ、ナポレオンの時代は終わりを告げました、
ナポレオンが、ブラジルに残した功績
ナポレオンの時代が終わったとはいえ、
実は彼がヨーロッパの国々を侵略したことで、
今日のコーヒー大国ブラジルにも影響を与えていたとされています。
ナポレオンが、ポルトガルのリスボンを占拠した1800年ごろ、
イギリスと仲の良かったポルトガル王室は、
その危険から逃れる為、一時イギリスに非難。
さらに、ポルトガルは、当時植民地化していたブラジルの、
リオ・デ・ジャネイロに王室を移し、首都としました。
14年後のナポレオンの失脚を受けて、ポルトガルは本国に戻り、
ブラジルを元の植民地に戻そうとした際に、
力をつけていた大土地所有者や、資本家が猛反対。
1822年にポルトガルに帰還したジョアン6世の息子である、
「ドン・ペドロ」がブラジルの独立を宣言し、ペドロ1世となりました。
ナポレオンは、間接的ではありながらも、
のちのコーヒー大国となる「ブラジルの建国」に大きな影響を与えたとも言えるでしょう。
コーヒー文化がもたらしたフランス大革命
フランスでのコーヒー文化は、上流階級から民間まで広がりみせ、
カフェ文化は、ナポレオンを含め多くの革命家を産みだしました。
その存在は、
フランス大革命の重要なポストを担った、
ということは間違えありません。
世界を大きく動かした、
あの「フランス革命」は、
「コーヒー」があったからこそ、
と行っても過言ではないでしょう。
- コーヒーが廻り、世界史が廻る(本:臼井隆一郎)
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