ドイツの東アフリカ植民地化政策とコーヒープランテーションの成果

東アフリカでスタートした

ドイツの植民地化政策

コーヒープランテーションの成果は…

ドイツの東アフリカ植民地化計画

イギリスとフランスの2大勢力が世界を揺らす19世紀、

ドイツも両国に追いつけと、植民地政策を開始することになります。

当時、ドイツ国内では様々な問題を抱えていたため、植民地を獲得する必要がありました。

 

また、コーヒーが世界を駆け巡る現実を目の当たりにしていたため、

「植民地 × コーヒー」

という大きな希望と期待が人々の心を捉え、

ドイツでは、多くのコーヒー会社が設立されました。

 

そうして、植民地政策の場所に選ばれたのが、

「東アフリカ」

 

特にコーヒープランテーションも作るために

最も適した場所は、東ウサンバラの丘陵地帯でした。

 

様々な困難に直面しましたが、

どうにかして、黒字化に成功。

ただ、黒字経営できたのも、23年間営業した内の、たったの3年間だけで

トータルでみれば、大失敗だったそうです。

 

その失敗の大きな理由としては、労働者の「量と質」によるものでした。

ドイツの誤算

コーヒープランテーションを、東アフリカでスタートさせたドイツ。

十分な用地はあるし、金もあり賃金も払える。

では一体何がダメだったのだろうか?

 

「労働力の量と質の誤算」

 

もともとコーヒーに関わることができる生産人口が少なく、

コーヒーを大量に栽培出来たとしても、

収穫することができない、ということが1点目。

 

そして、最も大きな理由としては、

「黒人は、労働の仕組みを、理解していなかった」ということ。

 

つまりどういうことかというと、

「労働を売って、お金を得る」

という概念が、そもそもなかったのです。

 

「労働に対する対価として、賃金をもらう」というのは、

西欧における近代市民社会の基本ですが、

この「あたりまえ」は、全く通用しませんでした。

 

賃金は払えど、仕事しない、ましてや職場に来ない、

ということは、よくあることだったのです。

※賃金労働が生まれた背景としては、イギリスの”囲い込み”が最たる例で、
人々を土地から追い出し、生産手段を取り上げる。
そうして、資本家が作った生産手段のもと、「労働力」の対価として、賃金を受け取る。
これが賃金労働の成り立ちだが、東アフリカの場合は、自分の土地を取り上げられなかったので、
「労働力」を得る必要が無く、彼ら現地人は、自分の農業を優先していた。

ドイツの植民地化の失敗

では、働かないものたちをどうしたのか?

 

「鞭で叩き、労働させる」

 

要するに、痛みによって、無理やり働かせたのです。

 

現地の黒人にとって、

「賃金労働」など意味不明で、

なぜか、「鞭で叩かれる」。

 

彼らにとって、全く理解し難いこの状況は、

黒人の反乱、「マジ・マジ反乱」の引き金になりました。

 

このマジ・マジ反乱では、

プランテーションの炎上やたくさんの死者を出す最悪の結果にな理、

ドイツも軍を派遣して鎮圧には成功したが、

結局、今まで作ったプランテーションはなくなり、

現地の黒人(労働力)も失うこととなりました、

 

長い歴史をかけて、作られた近代市民社会の構造です「賃金労働」を、

「自然」の産物だと思い込んでしまったドイツは、植民地化に失敗しました。

 

ここで考えておきたいのは、

東アフリカ発祥のコーヒーが、イスラムの世界を通り、

西欧の近代社会を作り上げるほど、世界を成長させたが、

東アフリカ自体は、「停滞」していた、

ということ。

 

また、黒人にも彼らなりの「法」があるにも関わらず、

「労働をわかっていない」
「抽象思考ができない」
「自由と平等と博愛には千年早い」

といったように見られるようになってしまいました。

東アフリカ植民地政策の再建

ドイツは、植民地化政策において、大きな失敗をしたが、

諦めずに再建を試みたました。

 

その大役を担ったのが、「デルンベルク」という人物と、

彼の友人「ラーテナウ」という人物です。

 

彼らは、現地に到着すると、

マジ・マジ反乱の経緯、住民の宗教や楽園観念について聞いて回り、

コーヒープランテーションの経営の現状について視察を行いました。

 

ラーテナウは、すぐにその根本的な問題にたどり着きました。

それは、

ドイツが「鞭で会話」をしながら植民地化政策を進めている、

ということ。

 

植民地の有する本当の価値は、「原住民」であり、

彼らの、自らのもつ力を、内から発揮できるようにしなくてはならない。

ということを指摘しました。

 

さらに、コーヒーの生産状況に関しては、

産出高が圧倒的に少なく、

特に安価で良質のコーヒーを輸出していたブラジルとは、

全く比べ物にはならなかったそうです。

ドイツのコーヒー 産業に希望の光が差し込む

ドイツのコーヒープランテーション経営において、

様々な問題点が見つかったが、

諦めずに再建を進めると希望の光が差してきました。

 

それが「キリマンジャロ」です。

 

東アフリカの「キリマンジャロ」地域では、

イギリス人、イタリア人などがすでにコーヒー 産業を行なっていましたが、そこにドイツも参戦。

そして、ドイツのコーヒー産業は一気に回復の一途を辿りました。

 

さらに、ビクトリア湖に面した

「ブコバ」という地域で、コーヒープランテーションを開始し、

ブコバで生産されたコーヒーもまた人気を呼び、品質改良を繰り返し、年々その値段を上げていったと言います。

 

結果的には、第一次世界大戦で、コーヒーによる利益は、

全て「無」となりましたが、

ドイツがコーヒープランテーションをおこなっていた、

タンザニアのコーヒーは、

現代でも、世界を魅了する人気の高いコーヒー豆となっています。

ドイツのコーヒー植民地による負の遺産、ユダヤ人大虐殺

ドイツのコーヒープランテーションが、

現代のコーヒー産業につながる軌跡を残した一方で、

知っておくべき歴史の事実もあります。

 

ドイツは、東アフリカで植民地政策を進め、

コーヒープランテーションを作り、

原住民である、黒人に対して、賃金労働を導入しました。

しかし彼ら黒人には、「賃金労働」という概念など存在せず、

結局は「鞭で会話」をし、強制的に労働させていました。

 

この時に”ある考え方”ができてしまったのです。

 

人種主義

 

これは、「支配人種」と「支配対象」としての「劣悪人種」を分類する、というもの。

 

この「人種主義」という考えが、ヒトラー率いる、ナチス党が起こした、

まさに「ユダヤ人大虐殺」にもつながると言われています。

 

アーリア人・ゲルマン民族(ヒトラー達)を「文化創造者」と呼び、

ユダヤ人を、対極である「文化破壊者」とした。

 

そうして、歴史上、人類市場最悪の出来事を起こしてしまったのです。

 

コーヒーの歴史を知る上では、

ドイツが行ったコーヒー植民地化によえる真実を知っておくことは大切だと思います。

 

今回の参考資料


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